パー・リーセンは、アメリカでローズマリングを復活させた功労者として評価されています。
ローズマリングはノルウェー全土で描かれるフォークアートで、そのモチーフはスクロール、つる、葉、様式化された花などです。一般的に、家のインテリアや外壁、天井、家具、小さな木工品の装飾に使われます。
誕生〜世界恐慌
リーセンは1880年12月8日、ノルウェーのレルダルに生まれました。父親のアンデシュ・オルセンは、画家または芸術家という意味のマーラーで、その作品は国際的な賞を受けるほどでした。その父からリーセンは画家としての訓練を受けます。ふたりの共作は、どの部分がどちらの手によるものか見分けるのは難しいことでよく知られています。
1907年に、リーセンは妻のインゲボリとともにアメリカに移住し、ウィスコンシン州ストートンに住まいを構えます。マント・ワゴン製作所に職を得た彼は、そこでワゴンに装飾の縞模様を描く仕事をしました。その作業は素早く、素晴らしい技術を持っていたといいます。時折、両手に筆を持ってペインティングする姿が目撃されました。
しかし1930年代に入ると、世界恐慌のあおりを受けて、ワゴン工場は閉鎖に追い込まれてしまいます。
デコラティブペインターとしての成功
幸いなことにリーセンは、ワゴン装飾の仕事のほかに、友人や家族のためにローズマリングやデコラティブペイントも描いていました。ワゴン工場が閉鎖したときには、デコラティブペインターとしての地位を築いていたのです。
俳優のアルフレッド・ラントとリン・フォンタン夫妻の依頼で描いた、カップボード、3本足の椅子2脚、ワードローブの写真が1933年にヴォーグ誌に載り、パー・リーセンは全国的な有名人となります。インテリアへのペインティングの依頼が次々と舞い込みました。リーセンの作品の多くはキッチンや寝室の家具、古いトランク、小物に描かれています。
1940年代に入ると、リーセンは大きな木製のスモーガスボード(smörgåsbord、スウェーデンのバイキング料理を載せる皿、または料理)のデザインを行いました。スモーガスボードはスウェーデン語だけに、この種の皿にローズマリングが描かれることはあまりありませんでした。
このプレートは大人気となり、注文が殺到しました。そこでリーセンは、組み立て工場の要領でペインティングを仕上げていくことにしました。人を雇って背景の色塗りをさせ、その上からフリーハンドでデザインを描いていくのです。
独自の技法と作風の確立
リーセンは、背景にはつや消しとつやあり両方の、中粘度の油絵具を、デザイン部分には高粘度(チューブ)の油絵具を使っていました。仕上げとして、描き上がった作品を、テレピン油で薄めた床用ワックスを浸した布で拭いていました。
リーセンの作品の特徴は、明るい背景の上に赤、黄色、青、緑、ピンクが組み合わされていることです。デザインのインスピレーションの源について訊かれたとき、リーセンは
「人は花や壁紙やレースのデザインを取り入れ、それぞれのスタイルに沿った形で発展させる。だがおそらく、そうしたやり方ではオリジナルデザインは生まれないだろう」
と答えています。リーセンの作品はノルウェーの様々なローズマリングの影響を受けているようですが、彼独自の方法で確立されているのです。
リーセンのサインが入った作品はあまり出回っていません。依頼されたときにだけサインをしていたからです。そのためリーセンの作品と彼の教え子の作品を見分けるのは簡単ではありません。
今も生き続ける、リーセンのローズマリング
リーセンが正式な学校や訓練プログラムを作ることはありませんでしたが、一部の友人や家族にはペインティングを教えていました。
リーセンの教え子ハリエットを妻に持つビャーネ・ロムネス氏は「アメリカのローズマリングが本場ノルウェーのローズマリングと異なる点が2つある。興味深いのは、その両方をパー・リーセンが確立したことだ」と書いています。
ロムネス氏が指摘する2つの異なる点とは、スモーガスボードプレートへの装飾(ノルウェーでは木製のプレートにペイントされませんでした)と、背景に白とアイボリーを使うところです。背景に明るい色が使われた伝統的なローズマリングの作品をまれに目にすることがありますが、ほとんどはイエローオキサイド、レッドオキサイド、緑、青、黒が使われています。
パー・リーセンは1947年に心臓発作でこの世を去りました。膨大な数の作品と、アメリカのローズマリングに多大な影響を残して。
文献・写真提供 / Decorative Arts Colletion ,Inc, (The fathers of AmericanDecorativePainting)