ピーター・オンピア(Peter Ompir, 本名チャールズ・バーンズ)は1904年ペンシルバニア州ピッツバーグに生まれた、後に“偉大なるピーター”、“アメリカントールペインティングの父”と呼ばれる芸術家です。
第8回コンテスト作品展 同時開催 「世界のトールペインティング作品」で最も人気のあったピーター・オンピア。知られざる人物像の一部をご紹介します。
ピーター・オンピアが作る世界観
オンピアは、フリーハンドで描いたものの上に施すアンティーキングの巧みな技でよく知られています。オンピアファンは口をそろえて言います。「彼の作品の良さはその美しい色使いにある」と。実際彼のデザインのモチーフは、花や鳥、果物そしてコミカルな姿の軍人やジョニー・アップルシード(アメリカ中にリンゴを植えてまわったと言われる伝説の人)、ウィリアム・テルなど、バラエティーに富んでいます。このようなものを描いたのは彼自身がイギリスの骨董品や絵画にとても影響を受けた為だと言われています。
オンピアは常に、モチーフと素材がマッチしていること、またそれをどれだけ生き生きと描くことができるかということにポイントをおきました。そして仕上げのアンティーキングは、彼の長い鍛錬の末に編み出された緻密な方法で行われます。ただのブリキ缶に彼は命を吹き込むのです。
40年にも及ぶ師弟関係を超えるような長い付き合いの中でワーナー・リードがオンピアの後継者となりました。しかしコレクター達は「オンピアが自ら作り上げたニス塗りの独特の味わいを出せる者、彼の重厚でかつ豊かな色彩を創り上げられる者は残念ながらいない。」と語ります。
死後なお愛されるペインター
彼が世を去った現在でもその作風を支持するペインターはたくさんいます。自分の作品はどこかから模倣したものだと語る彼は自分の作品に著作権を持ちませんでした。そしてどこか滑稽で心温まるモチーフに緻密な作業で仕上げられた絵は多くのペインターの称賛の的となり、模写されることもしばしばです。ジョ・ソーニャやボビー・タカシマも彼の熱烈なファンと言えるでしょう。
オンピアスタイルと呼ばれるこの作品群は、彼の死後もなお、こうして人から人へ時を超えて受け継がれていくことでしょう。
オンピアスタイルの誕生秘話
希望と野心に燃えるピーター青年が、シカゴ芸術学院そしてアメリカンアートアカデミーを卒業しニューヨークに出てきたのは、折しも世界恐慌の風が吹き荒れる真っ只中でした。インフレに苦しむ人々の間では、ファインアートに親しみ鑑賞して蒐集するような余裕はありませんでした。
そこで、ピーターは考えます。「芸術を表現するのに、高い素材を使わなきゃいけないなんてことはないんだ…」と。彼は身の回りにある生活用品、およそ今までの芸術家がその表面に絵を描こうとも思わなかった素材に絵を描き始めたのです。
目に入ってきたものなら何にでも描いたんだ
1970年に行われたインタビューで、彼は当時を振り返ってこう語っています。
「その頃の僕は、目に入ってきたものなら何にでも片っ端から絵を描いたんだ!ほんの小さなマッチ箱から、新しいもの古いもの問わずね。何にでもさ…」
大手百貨店での販売が始まる
そうした彼の作品は仲買人を通して売り出され、次第にメーシーズやスローンズといった大手の百貨店でも知られるようになっていきました。流行に敏感なニューヨーカーたちには、どこにでもあるような普通のヤカンやホーロー引きの水差し、ちりとりやトレイに描かれた生き生きしたデザインが斬新に映ったようです。
アンティーキングへのこだわり
彼はニューヨークを拠点にしながらもニューイングランド地方を良く旅するようになりました。今までのようなありきたりなものではなく、機能的でかつ彼の眼鏡にかなうユニークなアンティークを探すために…。このとき、アンティークの素材にユニークなパターンを描き、さらにアンティーク加工を施すという彼のこだわり抜いたスタイルが誕生したのです。 一つの作品に費やす時間はまるまる二週間、その工程は十九にも及びます。
しかし、彼がアンティーキングにどんなメディウムを使って、彼独特の風合いを出していたのかはいまだに謎なのです。
インタビューでこの質問を受けたピーターはこう答えました。「別にたいしたことじゃない。ひたすら作業に打ち込み、辛抱強くしていることだね…」丁寧にニスをかけサンディングをし、同じ作業を繰り返し行った結果が豊かな色合いに独特の風合いを生み出すのです。
文献・写真提供 / Steph’s Folk Art Studio, The Fathers of American Decorative Painting, JoSonja.com
愛弟子ワーナー・リードとの出会い
ピーター・オンピアにとって、ひとつの作品を作り上げることは、非常に時間のかかる作業でした。彼はアシスタントを持つことを考え、そのときに出会ったのがワーナー・リードだったのです。ニューヨークで創作活動に入って間もない時期でした。
リードは、ニューヨークからバーモント州、マサチューセッツ州シェルフィードと移動を重ねるピーターとともに共同生活を送りながら、彼の創作活動をサポート。リードの仕事は、下準備に必要なサンディングや下塗り、色付けばかりだったようです。ところが、ある日突然、ピーターは彼に筆を渡し、「さぁ、もうできるだろう。自分の絵を描いてみろ…」と告げたのです。
ピーターは、共同生活の中からリードの絵を描く素質、そして自分と同じように辛抱強く地道に努力する姿勢のあることを見抜いていたのかもしれません。
リードとの二人三脚
こうしてリードは、図らずも自分の作品を創作するようになりました。しかし、!ピーター・オンピア”という名前は二人の共同作家名として使われていたため、当時の作品にリードの名前を見ることはありません。
ファンやコレクターの中には「私ならピーター本人が描いた作品と彼の弟子によるものとを見分けることができる!」と自信を持って語る人がいます。しかし、ピーター自身、自分の作品にサインはしましたが、作品の出来上がった年月日を書くことをしませんでした。唯一見分ける方法は最初にその作品を買った人の記録から市場に出た年や時期を推察することで見極めるしかなく、コレクター泣かせの芸術家だったようです。
文献・写真提供 / Steph’s Folk Art Studio, Pieces of the Past, JoSonja.com