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Peter Hunt, 1898-1967

フォークアーティストのピーター・ハントは、アーティストとして仕事を始めた当初、自身を「ピーター・ロード・テンプルトン・ハント」と名乗っていました。自らの出自をあるときはロシア王家の子孫、あるときはイギリス貴族の末裔、またあるときは生粋のニューヨークっ子と語っていたといいます。

しかし、そのいずれも真実ではありません。ハントには称号がありませんでした。ロシアには行ったことさえありません。イギリス貴族との最も近い接点は握手をしたことくらい。ニューヨークは生まれたところから遠く離れていました。

では、なぜ嘘をついたのでしょうか? 才能あるアーティスト、やり手の起業家として独力で名声をつかみとったハントは、真実を語れば、自身が作りあげた、あかぬけたイメージが損なわれ、名を広めてくれた金持ちのクライアントを失望させると考えたのでしょうか。

豪邸の応接間を彩っていたハントの農民風デザインがアメリカのあらゆる家庭に広まった、1920年代から50年代にかけては、それは真実だったかもしれません。確かに、作品、実生活にかかわらず、装飾することはある種の効果を生み出していたようです。

アーティストとして活躍中にハントは、化粧品業界の象徴ヘレナ・ルビンスタイン、シカゴの実業家ジェームズ・ディーリング、アーティストのジョン・ウォーフブルース・マッケインフレデリック・ウォーらに愛されました。

しかし21世紀に生きるわれわれの目には、ハントの出自、人生、芸術に関する真実は、彼が紡ぎ出した幻想よりも魅力的に映ります。

出生〜戦争、装飾家具との出会い

ハントの本名はフレデリック・ロウ・シュニッツァー。1896年、ヨーロッパ貴族の息子としてではなく、移民の息子としてニュージャージー州ジャージーシティの荒廃した地域に生まれます。

経理の職業訓練を受けながらも、フレデリック青年はニューヨークのグリニッジヴィレッジと呼ばれる、生まれたばかりの芸術村でのボヘミアンライフに惹かれていきます。そこでは名前を「ピーター・ハント」に改め、ろうけつ染めとロシアバレエ団スタイルの舞台セットとコスチュームのデザインに明け暮れました。

しかし新生活に慣れる間もなく、第一次世界大戦が勃発し、ハントは看護兵に志願します。そして派兵先のフランスで、生涯にわたって彼の芸術に影響を与えたもの、農民風に装飾された家具を目にするのです。

戦争が終わってもハントは数カ月間ヨーロッパに留まり、ポーランド、ドイツ、イタリア、アルザス地方の農村を旅して、様々なスタイルの装飾モチーフについて学びます。しかし帰国後は、戦後のアメリカで生計を立てていくために、そうして学んだ農民風の装飾をあきらめざるをえませんでした。

プロヴィンスタウンでの開業

しばらくの間ハントはニューヨークに住み、ろうけつ染めの布を売ったり、フリーランスのアーティストとして喫茶室の内装から本のカバーのデザインに至る、あらゆる種類の仕事をしたりして暮らしていました。そのときに出会ったのがヘレナ・ルビンスタインです。生涯の友となった彼女は、ケープコッドの先端、プロヴィンスタウンにあるお気に入りの別荘にハントを招待しました。

プロヴィンスタウンは、ハントが訪れたヨーロッパの農村を強く思い出させるところでした。ハントは即座に目抜き通りのコマーシャルストリートに建つ家を買い、ピーター・ハント・アンティークスを開きました。ところが最初の2年は、店の経営は上手くいきませんでした。

プロヴィンスタウンで迎える2度目の冬に、ハントは捨てられた家具にヨーロッパで見たデザインを描いて時間を過ごすことにします。それらの色鮮やかな家具は、春から夏にかけてヨット遊びをしにプロヴィンスタウンにやって来る、金持ちの観光客の目にとまり、避暑地の別荘を彩るために使われるようになりました。

突然の成功

ビジネスマンとしても優秀なハントはこの機会に飛びつき、ケープコッドに別荘を持つニューヨークやボストンの上流階級の夫人たちの間に、農民風ペインティングの需要を作り出すことに成功しました。ハントはウィットに富んでチャーミングな性格だったため、装飾家具だけでなく社交能力でも夫人たちを魅了したのです。ケープコッドやニューヨーク、ボストンで開かれる社交界のパーティに招待されるようになりました。

評判は広まり、ニューヨークの百貨店、メイシーズとギンベルズがそれぞれ所有するハントのコレクションを宣伝するようになりました。高まる需要に応えるため、ハントは多くのティーンエイジャーを見習いとして雇い、そのペインティングスタイルの模倣を教えるようになります。そうした若者が描いた作品にも、ハントのサインが入れられました。今日では、ハントが描いた本物と見習いが描いたものとの見分けが難しくなっています。

いきなり手にした大金のほぼ全額を使って、ハントはコマーシャルストリートの自宅の裏にある小さな家を数軒買い、中央に庭を擁したショップへと改装しました。天気が良い日には、中庭で見習い職人たちが作業をしていたといいます。ハントが「ピーター・ハントの農村」と呼ぶそのショップは、たちまちプロヴィンスタウンの主要な観光名所になりました。

再びの戦争を切り抜ける

第二次世界大戦が始まると、高級品への需要は落ち込んでいきます。しかしハントは自らの人気と農民風ペインティングのテクニックを利用して、デコラティブペイントの商品ラインを立ち上げたばかりのデュポンと提携し、戦時体制に応じたビジネスを展開します。

全米に向けた大々的な宣伝を通して、ハントはアメリカ国民に、戦争遂行を支援するために「トランスフォーマジック」と名付けたデコラティブペインティングのテクニックを使って、「古い物を新しく」しようと呼びかけました。またデュポンとともに、彼のエンジェルや花、装飾模様の描き方についてのパンフレットも出しています。ライフやハウス・ビューティフル、マッコールズ、マドモワゼルといった全国誌もそのアイデアに飛びつき、大判の写真本を出版しました。

キャンペーンは大成功を収めます。トランスフォーマジックのパンフレットはすぐさま「ピーター・ハントのワークブック(1945年、ジフ・デーヴィス社刊)」という本として出版されました。その後「ピーター・ハントのハウ・トゥ・ドゥ・イット・ブック(1952年、プレンティス・ホール社刊)」も出版されています。

第2次世界大戦が終わる頃には、ハントの名前とスタイルは誰もが知るものとなり、デザインの大量生産が始まりました。たちまち彼が描く農民、エンジェルなどのモチーフは、アップリケや印刷物、食器、テーブルリネン、ブリキなどあらゆるものを彩るようになりました。

戦後、オーリンズにて

しかし1950年代を迎える頃には、ハントの農民風デザインは市場にあふれ、需要は落ち込みました。ハントはプロヴィンスタウンの不動産を売り払うと、オーリンズに引っ越し、様々なアーティストが経営するショップを集めたビル、ピーコック・アレーを開きます。ハントはショップの裏に建てられた、こぢんまりとした家を住まいとしました。

1960年代までに、フォークアートデザインの進化型、サイケデリックアートを作品に取りいれるようになります。何点かの作品を発表しましたが、わずかな関心を引くにとどまりました。

1967年4月、ハントはオーリンズの自宅で就寝中に息を引き取ります。輝かしい名声と富を手にしたにもかかわらず、所有していた土地・建物は全部で4万ドルにしかなりませんでした。その後何年も、彼の作品は中古屋やガレージセールで売られていました。

今日、ハント作品の人気は再び高まっています。再びスポットライトを当てたのは、デコラティブアーティスト、フォークアート収集家、アンティーク専門家たちでした。ほぼ忘れられた40年間を経た現在、ハントの作品には高い値段がつけられています。

ピーター・ハントは戻ってきたのです、再び。

文献・写真提供 / Copyright © Lynn C. Van Dine, author of “The Search for Peter Hunt” (The Loal History Company,2003)/ Decorative Arts Colletion ,Inc, (The fathers of AmericanDecorativePainting) / 「Peter Hunt’s HOW-TO-DO-IT 」(PRENTICE HALL)